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わざびのけいこさん
なんとも贅沢な一杯をいただいてしまった。
ことの始まりは先日参加した中村屋麹店さんでのみそづくりワークショップ。 初めてお会いする方も多かったその会に、ひときわ物腰が柔らかくて、やさしい笑顔が印象的な女性がいた。「どなたかな?」と思いながらも作業は進み、ご挨拶のタイミングを逃してしまった。そのあとはお互い麹やら大豆ペーストが手についていたもんだから、みそを仕込み終わった頃にようやく「どうもはじめまして」となった。 彼女の名前は「けいこさん」と言った。 おとなしそうなけいこさんが、普通だったら名刺を渡して「こういうものです」、となるタイミングで手渡してくれたのは、【わさびみそ】だった。 わさびみそ。。 コロンと丸いフォルムのパックをぽかんと見つめる私に、「うちで作っているんです。」と言った。シュッとした言い方だった。そのとき、わさび農家に嫁いだという彼女の生活を見てみたいなあとぼんやり思った。
チャンスは思いのほかすぐにやってきた。 けいこさんがわさび田を見せてくれるというので、友人と一緒にいそいそと出かけて行った。 伊豆市天城湯ヶ島。伊豆半島の真ん中あたり。「浄蓮の滝」の少し下に、「たきじり山葵(わさび)園」はあった。ご自宅の横には清流本谷川が流れ、天城の山々が間近に迫っていた。 「よく来てくれました。ありがとう。」と彼女は迎えてくれた。 ああ、この笑顔。フワーッとしていて、でも芯の強さが滲み出ている。「けいこさん」こと、たきじり山葵園5代目の妻 浅田恵子さん。エプロンに長靴姿で自宅裏手のワサビ田にさっそく案内してくれた。
歩きはじめて10分くらいで小さな橋があった。鉄製のシカ避け柵を開け、橋を渡る。落ち葉をふみ踏み歩を進めるのは、幅1メートル弱の小径。水の流れる音に時折会話を遮られながらも、恵子さんは田んぼについての説明を丁寧にしてくれた。 ●このわさび田は、山の斜面と石段の落差を生かして常に一定の勢いで水が流れるように設計されている。 ●わさびを植えてある地下には、上から砂、小石、こぶし大石、玉石(両手で抱き抱えるほどの大きさ)の4層を重ねてあって、それがフィルターの役目を果たしてくれるおかげで、わさびの間を流れるのはきれいな水。 それぞれから流れた湧水が集まり、下の段で合流して、下の段のわさび田を潤している。これを畳石式栽培方法と呼ぶ。 ●水温は通年15度くらい。
こんなエピソードもあった。
昭和4年頃、当時の3代目が(おそらくふんどし姿で)ヤマメを取ろうとしていて、たまたま川の中に湧水を見つけた。そこでピンとひらめいて川の脇を掘り進めて行くと、15メートルほど奥まったところに、これまた運よく水の道があった。その大発見こそが、今なお水量豊富であり続けるわさび沢を作ることにつながったのである。
...っていうくだりなんて、もはや「そのとき歴史は動いた」のBGMを脳内で流しながら聞いていた。勝手に。もちろん恵子さんは、もっと柔らかな口調で話してくれていた。 のである、の部分とかは完全なる私の想像の翼がつくりだした幻聴だ。水の音があまりに心地よくて、うっかりタイムトリップしてしまった。 恵子さんの詳細な説明を聞いていてふと思った。
彼女は、嫁いだ先の商いや家族の歩んできた道を本当に尊敬していて、ご先祖様から今に続く営みの中での、自分自身の役割を理解しようとしているのかもしれない、と。 何十年も前のふんどし姿の義家族のことを、まるで自分が見たかのように話せるのは、わさび仕事の合間や家族団欒の時なんかに、「おとうさん」や「おかあさん」が彼女に話して聞かせたことを、恵子さんが大切に聞いていた証拠だ。
そして恵子さんの2人の子供もきっと、お母さんと同じように話せる人になる。そうして家族の物語は続いていくんだろうとおもう。澄んだ水が、わさびの隙間をくぐり抜けながらサラサラと流れ進むように、ごく自然に滑らかに。 自宅の作業場に戻って、わさびを出荷する準備も見せてもらった。 まずは専用の洗浄機で洗う。ドーム型の洗浄機の中は、洗車場のような強力ジェットが多方面から出ているので、ここで大まかな汚れを落とす。 そのあとは全て手作業で茎を整えていく。 いつもの席で ていねいに進められる いつもの作業
73歳のおとうさんは50年この作業をしている。 96歳のおばあさんは20歳でお嫁に来たというから、 もっともっと、長い間。
わさびを田んぼに植えてからおおよそ2年後に収穫するまで、植え替えや間引きなどのお世話はあまりないそう。たきじり山葵園では農薬を使っていないから、薬を撒く作業もない。毎日の日課といえば、水の見回りや雑草取りなどだという。 年月を経て成長したわさびが出荷の時を迎えたそのときには、 手間暇をかけて、送り出す。 たきじり山葵園で育てられている「真妻(まづま)」は希少種とされる。きれいに整えられた後は冷蔵庫で保管され、1週間以内に各所に出荷される。 そうして、ついに冒頭のアレのご登場だ。
土鍋で炊いた新米の上に 恵子さんの出身地である焼津のかつおぶしを乗せて、 取ってきたばかりの真妻わさびを鮫肌ですり下ろす。 ショートケーキの上の苺のポジションにちょこんとおく感じで、 わさびを乗せる。
この極上の1杯を包む器は、滝尻わさび園から車で30分くらいのところに工房を構える有城利博さんの作品。食器やスプーン、トレーなどを作っているアーティストで、天城で間伐された木材を使った優しい風合いには定評がある。 あー... この一杯に関するコンテンツが多い。多すぎる。 要は。 「最高」 そういうことだ。 たきじり山葵園のわさびを、是非食べてみてほしい。 恵子さんやご家族の紡いできた時間に 天城の厳しくも美しい自然に 歴史を動かした3代目のふんどし姿に 思いを巡らせながら